玉ねぎ頭のペリクレス、アテネ黄金時代を築く
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ペリクレスの一生
ペリクレスは、その玉ねぎ頭を隠すため、いつも兜をかぶっていたと言われている。
彼はミルティアデスを告発し、有罪判決を勝ち取ったクサンティッポスの息子である。
ペリクレスの父クサンティッポスは、第2回ペルシア戦争で将軍(ストラテゴス)にまでなった人物である。
また、かの有名な「ペリクレス時代」を築いた人物でもあることで有名。
ペリクレス時代とは、デロス同盟を強化して、アテネの国力を充実させた時代のことで、アテネの黄金時代。
古典文化が開花したり、ソロンの改革でアテネ民主制をスタートし、それが円熟期を迎えた時代。
ペリクレスは、異例に長期的なリーダーシップを保ったカリスマ的指導者と言われている。
ただ、ペリクレスがすごかったのかそれとも第2回ペルシア戦争が終わり、国力を十分に育てられた時代だったからこそなのか、そこは疑問が残るところである。
キモンとイソディケの結婚
前480年頃、ミルティアデスの息子キモンが、アルクメオン家のイソディケと結婚する。これにより、アルクメオン家、キモン家、カリアス家が結びつき第門閥連合が誕生する。
そしてその頂点にたっていたのがミルティアデスの息子キモンである。
キモンは前478年、初めてストラテゴスに選出される。(前461年に陶片追放されるまで)それまでなんと9回もストラテゴスを務め、反スパルタ政策を推し進める。
テミストクレスとは違い、キモンは典型的な名門貴族リーダーであった。
名門の家柄、姻戚ネットワーク、莫大な富、ストラテゴスとしての戦功などによってリーダーシップを発揮する。
キモンは太っ腹だった?
キモンが10年以上活躍できた基盤として、他にあげられるのは、私財や戦利品を用いて建築事業を行ったり、不特定多数の市民へ盛大な施しをしたりしたことがあげられる。
かなり太っ腹な面倒見の良いリーダーのようで、市民から指示を得ていたと思われる。また父ミルティアデスのことをいつも讃えていた。
時代背景
この頃の時代背景として、第2回ペルシア戦争に勝ち、テミストクレス率いるデロス同盟による海上覇権を確立し、アテネの国際的地位はスパルタと並ぶほどになっていた。
それにより、テミストクレスが晩年に反スパルタ政策をとって失脚していったように、市民たちの力が増大し、民主政が発展していった。
その点、ペリクレスが活躍する時代がテミストクレスの時代に完了していたと言える。まるで豊臣秀吉が全国統一を成し遂げ、徳川家康にリーダーが移ったのと似ている。
「織田がつき、羽柴がこねし天下もち、座りしままに食うは徳川」
「ミルティアデスがつき、テミストクレスがこねし天下もち、座りしままに食うはペリクレス」
と言い換えることができるかもしれない。
また、この頃はイセゴリアと言って市民が自由に発言する権利があった。
また弁論術がアテネに定着するなど、市民の発言力がどんどん高まっていった時代であった。そして、アルクメオン家、キモン家、カリアス家のような名門貴族だから政治ができるのではなく、弁論術によって市民を直接説得するリーダーたちが活躍できる時代であった。
その点においては、今日の成熟した民主制国家である我が国日本と似ているところがある。日本でも、演説や、選挙特番などでの討論の上手さによって票が動くような時代だったのではないか。
ペリクレス最強
またペリクレスが強かったのは、名門貴族(クサンティッポスの子、アルクメオン家の出身)の出であること、それに加え弁論術が上手かったと言われている。
弁論術(エトリケ)は、シチリア島でテクネ(技術のこと)として成立し、そのあとにソフィスト(職業的教師)によってアテネに導入された。
ペリクレスの政治姿勢
ペリクレスはミルティアデスと対照的と言われ(パロス島に金があるから市民たちを金持ちにしてやるなどという勢いに任せた言葉)、弁論術による合理的で論理的な説得を重視していた。
ペロポネソス戦争がこの頃起こり、その戦闘方法について市民に演説をしたことなどが有名である。
ペリクレスの弁舌は、「雷を轟かす」と言われたほど。
さらにアルクメオン家の出身であることや、ストラテゴス(将軍)として14回も功績をあげたことなどから、支持を得ていった。
ペリクレスは最後の名門貴族リーダーとも言われている。
ペリクレスの父クサンティッポス
ペリクレスの父クサンティッポスは、クレイステネスの姪アガリステと結婚し、ミルティアデス裁判で有罪判決を勝ち取った人物。
しかしその5年後に陶片追放にあい、第2回ペルシア戦争で将軍として活躍した人物がクサンティッポス。
若い頃のペリクレスは、そんな父を見ながら政治の世界からは距離を置いていた。
歴史家のプルタルコスは「容姿や弁舌がペイシストラトスとそっくりであり、申し分のない富や家柄ゆえ陶片追放にあうのを恐れた」と言っている。
キモンの失脚
めんどう見がよく、市民から慕われていたキモンだったが、前461年キモンが失脚した後、アテネは反スパルタ路線へと移行していく。
その点、テミストクレスはこの10年以上前に反スパルタ政策を掲げており、時期尚早だったことがうかがえる。
この頃のアテネは、前450年頃、反ペルシア・反スパルタ政策を掲げる。
デロス同盟
前478年、ペルシアの再興に備えるため軍事同盟としてアテネとイオニア地方が同盟を結ぶ。同盟の本部は金庫だったデロス島。
その後、デロス島から金庫がアテネに移り、アテネは実権を強めていく。
内政におけるペリクレスの功績
前451年、両親ともアテネ市民であれば、市民権が獲得できる。これを必須条件とする。
ペリクレスはなぜこの市民権法を確立した?
・アテネ市民増加を抑制するため?
・デロス同盟の経済的利益による市民数を制限したかった?
・外国の有力者が婚姻によってアテネの政治に影響を及ぼすのを防ぐため?
これによって、市民団の閉鎖性を強めて、徹底した直接民主制が確立していく。
この頃は3万人の成人男子がいたと言われている。
裁判人手当の導入
1日2オポロスの日当を与え、だいたい1日3000円と言われている。
日本の裁判員制度と似ている仕組みを、すでにペリクレスの時代から取り入れていた。
キモンのような面倒見の良さで市民を説得するのではなく、民主的な仕組みを構築することで市民たちからの支持を得ようとしたと言われている。
また、国家に流入した富を市民に還元するシステムを取り入れたとも言われている。
アテネ市民を他の土地に流入
前450年頃デロス同盟の加盟国の領土にクレルキア(軍事植民地)を建設し、アテネ市民を入植させる。これをペリクレスが推進した。
その後に、前449年、カリアスの和約という流れ。
カリアスの和約で正式にペルシア戦争が終わる。
これにより、ペリクレスのアテネによる同盟が一層強化されていく。
このカリアスの和約後のアテネがペリクレスが築いた黄金時代と言われている。
デロス同盟のイオニア地方などの国には貢租を取り立てたり、駐留軍を置いたり、役人を派遣し、内政に干渉したり、デロス同盟国の司法権の一部を取り上げたりと、かなり踏み込んだ干渉をしていく。
アテネの黄金時代「アテネ帝国」
デロス同盟の金庫がデロス島からアテネに移り、アテネ繁栄の資金源になる。
トゥキディデスは、ペリクレス時代の貢租収入は年600タラントン(今の日本の通貨だと360億円)
前431年に同盟金庫には6000タラントンあったと言われている。
最高は9700タラントン
そして前440年、ペリクレスのもとで大々的な建設事業を進めていく。
このペリクレス時代にあの有名なパルテノン神殿が建設された。
像だけで2000タラントンを上回ると言われた。
ペリクレスの建設事業
アテネの国威を見せしめるため。アテネ市民の自信を高める。市民の大量雇用を生み出す公共事業。国家に流入した富を市民に再分配。
この頃、ペリクレスのライバルとしてトゥキデディデスがいた。
デロス同盟基金を用いて建設事業をするのは是非のどちらか?という論点。
しかし、ペリクレスのライバルトゥキディデスは陶片追放にあい、ペリクレスの一人舞台となる。14年間にもわたり、ストラテゴスを重任していた。
ペリクレスの私生活はスキャンダルだらけ?!
ペリクレスは前460年に結婚し、2人の息子が生まれる。
そして20年後の440年、アスパシアトの関係が始まり、3人目の子供が生まれる。
アスパシアトは、ミレトス出身の女性で、高級遊女などと市民からは噂された。
しかし、並外れた政治的洞察力と弁論の能力があったとされている。
ここら辺はクリントン夫妻と似てる?
ペリクレスがアテネにもたらしたもの
弁論術による説得。公と私の分離。市民たちへの富の再分配。
キモンは私的な金で市民に対し建築事業をしたり、市民に好きなだけ作物を食べれるようにしたが、ペリクレスはこれを公的なお金で大々的に行った。
ペロポネソス戦争
ペリクレスはライバルでもあったトゥキディデスの歴史によると、強力なリーダーシップを発揮したとのこと。
前半はアテネが優勢で、ペリクレスの城に立てこもる作戦が功を奏します。
しかし、後半になるにつれてアテネでチフスが流行り、劣勢に。
そしてペリクレスに大きな不幸がもたらされます。
前430年、14年も務めたストラテゴスを解任させられ裁判にかけられます。
結果、有罪となり50タラントンを支払うことに。
また、この疫病により最初の妻との間にできた2人の子供を失います。
これにより自身がアテネ市民団の閉鎖性を高め、直接民主制を行うために制定した市民権法により家系断絶の危機になる。
しかし、「やっぱりペリクレスしかいない」と市民たちが考え、再び国家の指導権をゆだねるようになります。
そこでペリクレスは、自らの家系が断絶しないよう、民会に懇願し、市民権法にのっとってはいないが、アスパシアとの間に生まれた息子を市民として承認してもらうことに成功する。
この息子は小ペリクレスという。
疫病で65歳没。