「ギリシアの豊臣秀吉!」テミストクレスの一生
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テミストクレスの一生
テミストクレスは一匹狼や、ギリシアの豊臣秀吉などと呼ばれている。
サラミスの海戦で活躍したギリシアの政治家。
ミルティアデスはキモン家出の金持ちだったのに対し、テミストクレスはとても倹約家だった。
ヤーコブ・ブルクハルト
ギリシア文化史を書いたヤーコブ・ブルクハルトによると、
真のアテネ人として、あらゆる犠牲を払ってアテネを推進させた第一等の人は、誰よりもあの驚嘆すべきテミストクレスである。
と話しており、ヤーコブ・ブルクハルトは絶大な評価をしている。
一匹狼、テミストクレス
テミストクレスは一匹狼として知られており、キモン家の一族で第一回ペルシア戦争で2倍のペルシア軍を破ったマラトンの戦いにおいて功績をあげたミルティアデスとは大勝的な人物である。
父のネオクレスは政治経験がなし、そして門閥にくいこむこともできなかった。
これは、アルクメオン家(ミルティアデスを告発したクサンティッポスや、その息子ペリクレスなどの有力貴族、のちにミルティアデスの息子キモンがイソディケと結婚したことにより、キモン家とアルクメオン家が結びつく)との因縁ゆえとも言われている。
筆頭アルコンの一人
テミストクレスは、ミルティアデスが前524年に筆頭アルコンを勤めていたが、テミストクレスも同じようにその後前493年に2年間だけ筆頭アルコンを務めている。
また、この頃アテネの銀山で豊かな鉱脈が発見され、このお金によって、また第一回ペルシア戦争のようにアケメネス朝ペルシアが攻めてくると考え、テミストクレスは艦隊を作ることを提案する。
これにより、70の艦隊が200にまで増え、第一回ペルシア戦争の時のペルシア軍の艦隊の3分の1までに増大する。
この銀山によって作られた艦隊は、のちに第2回ペルシア戦争で活躍するようになる。
テミストクレスはどうやって台頭していった?
テミストクレスが台頭の足がかりとしたのは、アルコン選出方法の改定にあった。
抽選制を導入して、アルコンが民主的に選ばれるようにした。
また、選挙で選ばれる将軍職のストラテゴスの比重を重くしたことにより、さらに民主化を進めた。
これにテミストクレスが関与していたのかはさだかではないが、この政治の変化が彼を第1回ギリシア戦争後のリーダーにまで押し上げたのは間違いない。
また、テミストクレスは480年にストラテゴスを務めている。
ソロンの改革
この頃ソロンによって、法の整備が進められ、アテネの民主制の基礎が築かれることとなる。これにより、アテネ市民は平等に政治に参加できるようになっていく。
これは、今の資本主義と民主主義に似ていて、穀物の量によって、経済力をつけた平民が政治に参画できるようになる。
陶片追放の嵐
また、この頃から陶片追放がさかんに行われていて、アテネ市民は僭主になりそうな人物を極端に恐れ、陶片で選ばれた人物を10年間国外追放をした。
ペリクレスの父で、ミルティアデスを告発したクサンティッポスも、前484年に陶片追放を受けている。
また、この時の陶片追放にあった人物はアルクメオン家の関係者とも言われている。(ちなみに、ミルティアデスの子、キモンはイソディケと結婚したことにより、アルクメオン家とキモン家が結ばれることになっている)
陶片追放の制度
この頃アテネには3〜4万人ほど成年男子がいた。
毎年一回民会で予備投票が行われる。そしてその2ヶ月後に陶片追放の投票が行われる。
その得票数は6000票と言われており、得票数が6000票なのか、投票数が6000を超えた中で最多の票を集めた人なのかはさだかではない。
1年に1回陶片追放があり、1人のみ。
陶片追放を受けた家族や親族には影響はない。
また、市民権や財産も奪われない。
これは、名門貴族の争いを平和的に解決する方法と言われている。
1960年代に1万以上の陶片が見つかる
この陶片にはテミストクレスの名前が書かれており、この時からすでにテミストクレスは大物政治家だったのでは?と言われている。
また、1937年にアクロポリスで発見された陶片には全てテミストクレスの名前が刻まれているが、書き手はわずか14人だった。
これは事前に準備された組織票だったと言われている。
また、テミストクレスの反対派による組織的な裏工作だったとも言われている。
陶片追放にあったのはアルクメオン家
陶片追放にあったのはアルクメオン家(クサンティッポスやその息子のペリクレス、キモンと結婚したイソディケなど)と言われていて、この後にアルクメオン家は衰退していく。
そしてアルクメオン家が衰退したあとうに台頭していったのがテミストクレス。
テミストクレスとアルクメオン家には深い対立関係があった。
テミストクレスが門閥にくいこむことができなかったのもアルクメオン家の因縁ゆえと言われている。
そのため、テミストクレスが、陶片追放でアルクメオン家を追い出したとも言われている。
プルタルコス「テミストクレス伝」
また、プルタルコス著の「テミストクレス伝」では、「名誉心の点では抜きん出ていた」「生まれつき名誉を競う心の極めて強い人だった」と言われている。→自分の損得しか考えない悪い政治家?
ミルティアデスに対する強い嫉妬心を持っていたとも言われている。
それゆえ、テミストクレスは「策士」と評される。
かなり腹黒い人物。
第2回ペルシア戦争
第2回ペルシア戦争がこの頃に起こる。中央集権体制を引き、最大版図にまで広げたダレイオス1世亡き後、息子のクセルクセス1世が即位していた。
ペルシア戦争は1年ほどで終結する。
前483年
この頃、冒頭にもあったように、アテネのラウレイオン銀山で豊かな鉱脈が発見され、テミストクレスの提案でこのお金で艦隊を建造する。(70→200隻に)
前481年
この頃にデルフォイの巫女の予言で「木の壁を難攻不落にすれば救われる」というものが現れ、
「木の壁」=アクロポリス(神託解釈者)
「木の壁」=船(テミストクレス)
というように意見が分かれる。
テミストクレスは、船を強化するため、戦闘能力のある成年男子市民全てを艦隊に乗り組ませ、それ以外の住民を疎開させた。
前481〜前480年
ギリシア連合軍は、テルモピュレーとアルテミシオンの第一防衛戦を貼る。
そしてテルモピュレーの戦いが起こる。ここでレオニダス王率いるスパルタ軍の有名な300の戦いが起こる。
その後にアルテミシオン沖の海戦が起こる。
抵抗むなしく、ペルシア軍がアテネに侵入してしまう。
この時のペルシア軍の規模は歩兵170万人、艦隊1207隻と言われ、第一回ペルシア戦争の時の20000人、艦隊600隻とは比にならない多さである。
前480年9月末
サラミスの海戦でテミストクレスが主役となる。
ギリシア艦隊が勝利する。
前449年
カリアスの和約でアテネ率いるデロス同盟とペルシア軍が和解する。
ペルシア戦争の意義とは?
ギリシアは、アテネとスパルタの協力を軸に、ペルシアの大軍の侵攻を防ぎきる。
そして戦争に勝利したことにより、ギリシア人としての民族意識が高まる。
そして、当時はスパルタが強かったが、アテネの方が勢力バランスが大きくなる。
さらに、ソロンの改革によって築かれ始めたアテネ民主政が進展していく。
前は発言権がなかった下層市民が3段階戦の漕ぎ手を担ったことにより、発言権が強まる。また、穀物によって資本主義のシステムを取り入れ、実力があれば発言できる社会になっていく。
テミストクレスの存在意義
テミストクレスは、ギリシア連合軍の指揮官たちの勲章者投票によって第2位に選ばれる。これは実質の第1位。
第2回ペルシア戦争の勝利は、テミストクレスなしには成し得なかったと言える。
また、デルフォイの巫女の予言の木の壁の解釈を船だとして、成人男性市民すべてを艦隊に乗り込ませたのは成功と言える。
テミストクレスの最後の功績
テミストクレスは第2回ペルシア戦争のあと、ペルシア軍によって破壊されたアテネの城壁の再建をしたり、ピラエウス港を整備したりする。
テミストクレスは戦艦を大々的に拡充し、アテネをギリシア一の海軍国へと押し上げた。
また、ピラエウス港の整備によって海軍国アテネのめざましい発展の基礎を築いた。
前471年に陶片追放にあうまで
テミストクレスは第2回ペルシア戦争に勝った後、反ペルシアから反スパルタへと転じたと言われている。
サラミスの海戦でギリシア艦隊が勝利したあと、ギリシア戦への関心を失ったとも言われており、やはりプルタルコスが言う「名誉心の点では抜きん出ていた」という言葉は正しかったのかもしれない。
前478年のデロス同盟の成立に関しては、テミストクレスは関与せず、アリステイデスとミルティアデスの息子でイソディケと結婚しアルクメオン家とつながりを持ったキモンが活躍した。
そして、その頃から反ペルシアの主導権をキモンに奪われたとも言われている。
そして、反ペルシアがだめなら反スパルタ政策で政界で生き残ろうとしたが、ペルシア戦争が終わったばかりで市民はあまり関心がなく、時期尚早だった。
テミストクレスの凋落の原因
・反スパルタ政策への転換
・彼の功名心への市民たちの反発
・市民たちは第2回ペルシア戦争が去ると、キモンのような従来型の名門貴族をリーダーを求めるようになる。
そしてテミストクレスは一匹狼と言われていたが、彼が名門貴族の慣習を打破することはできなかった。
テミストクレスをリーダーとしてどう評価するか?
テミストクレスをリーダーとして評価するなら「名誉心に囚われたギリシアの豊臣秀吉」のように感じました。
もともと貴族出ではないテミストクレスは、下層民出身で、のちに関白にまで上り詰めた豊臣秀吉と似ています。
また、豊臣秀吉は晩年慶長の役で朝鮮侵略に失敗していることも、反スパルタ政策をとり、失敗したテミストクレスと似ているところがあります。
プルタルコスが「名誉心の点では衆に抜きん出ていた。」と評しているが、果たしてテミストクレスは本当に名誉を求めてストラテゴスになり、第2回ペルシア戦争で英雄になったのか、その動機は不確か。
保守的傾向が強い古代ギリシアの歴史家たちは、民主化を推し進めたテミストクレスに批判的だったことから、歴史家の主観で「名誉を求めている政治家だ」と言われていたのかもしれない。
名誉を求めているだけだったら、民主化を進めず、テミストクレス自らが有力貴族となって実験を握れば良かったからである。
それをせずに民主化を進めたのは、テミストクレスが国家の善を考えてリーダーシップをとった善い政治家だったからではないだろうか?