「虚言癖で失脚」ミルティアデス
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ミルティアデスの一生
ミルティアデスは紀元前550年頃に生まれ、489年まで生きた。
その頃アテネの政治では、スパルタとペルシアという2つの軸が存在していた。
ペルシア派には「アルクメオン家」
スパルタ派には「キモン家」
という有力貴族がいた。
父キモンについて
ミルティアデスの父がキモン家のリーダーキモン。
ヘロドトスの歴史書によると、父キモンはペイシストラトスの専制政治に抵抗してアテネから亡命した。
キモンはオリュンピア祭の馬車競争で連続優勝をするなどの体力自慢。
→その後にアテネに帰国する。
だが、ペイシストラトスの一派であるヒッピアスの手によってキモンは殺害されてしまう。
キモン家とペイシストラトスとは仲が悪かったのかもしれない。
名門貴族が国政の指導権を独占
紀元前5世紀前半に、3大名門貴族が国政のアテネの指導権を独占する。
3大名門
1:アルクメオン家;ペルシア派
2:キモン家;スパルタ派
3:カリアス家
姻戚関係によって、権力を牛耳っていた。
伯父:ミルティアデス
ミルティアデスは、ペイシストラトスの僭主制にあったアテネを離れ、ケルソネソスに行く。そのケルソネソスで初代僭主となっていた。
歴史家ヘロドトスによると、ペイシストラトスとの対立の結果だと言われている。
アルコンについて
この頃、アルコンという役職があった。
アルコンとは、「統治者」を意味して最高権力を握っている人物のことを指す。
ミルティアデスはこのアルコンを3年勤めた。
ペイシストラトスはアルコンではなかったが、彼の僭主政は、有力貴族との連携によって支えられていた。
僭主制が崩壊すると、有力貴族たちは裏での連携を隠蔽した。
ケルソネソスへ行くミルティアデス
ミルティアデスは、ヒッピアスに送り出されてケルソネソスへと引っ越した。
そのケルソネソスで3代目の僭主につく。
そこでヘゲシピュレと結婚し、息子インディケ=キモンが誕生。
父もキモンというのでまぎらわしいので注意。
このミルティアデスの子ヘンディケ=キモンはのちにスキュロス島を獲得する。
他にも3島制圧して、黒海から穀物ルートを完成される。
※ちなみに僭主とは、本来の血筋に関係なく君主になる人物のことを指す
アケメネス朝ペルシアについて
ダレイオス1世が中央集権的な支配体制を確立する。偉大な王。
この時、ペルシアが地中海付近で最大の勢力を誇るようになる。
アケメネス朝ペルシアは紀元前550年〜紀元前330年まで約200年も続く。
アテネの対ペルシア対策
筆頭アルコンだったクレイステネスが政界から退場すると、それまで親ペルシアだったアテネが、反ペルシアに傾いていく。
しかし、ミレトスの要請に応じてイオニア反乱を支援するが、ペルシアの反撃が本格化すると、親ペルシアにころりと立場を変えた。
しかし、ペルシアによってミレトスが完全に陥落すると、再びアテネは反ペルシアになる。守るものがなくなったからである。
ちなみにこのミレトスはペルシアによって徹底的に破壊された。
この頃、ミルティアデスは、ペルシアへの抵抗を体現するシンボル的存在であった。
キモン家の卓越を支えたもの
キモン家の卓越の要因には色々なものがあるが、主に3つの要因がある。
その1
名門の家柄
その2
莫大な富
その3
オリュンピア祭の馬車競争での父キモンの優勝によって、絶大な威信を獲得した。
ミルティアデスの伯父で、ケルソネソスの初代僭主であったミルティアデス(伯父)は、優勝1回、父キモンは優勝を3回もしている。いかにキモン家が強かったかがわかる。
イオニアの反乱とは?
前499年〜494年:小アジア沿岸のギリシアの都市がミレトスを中心にペルシアに対して反乱を起こしたもの。
この時、ミルティアデスは反乱に加担としたとして疑いをかけられる。
この一件があり、前493年、ミルティアデスはケルソネソスの3代僭主を退き、アテネに戻る。実に23年ぶりの帰国。
イオニアとは、地方の名前である。
ケルソネソスにおける僭主政の罪で告発される
前493年、ミルティアデスは3代目僭主を勤めていたケルソネソスからアテネに帰国するが、「ケルソネソスにおける僭主政の罪」でアテネに告発されてしまう。
しかし、裁判では無罪を勝ち取る。
これは、市民の僭主政への疑惑を払拭するための形式的な「みそぎ」とも言われている。このケルソネソスの僭主政の罪が無罪となったことにより、ミルティアデスは正式にアテネに23年ぶりに受け入れられた。
ペルシアとアテネの戦争の歴史
その1
前499年〜前494年(5年間)イオニア地方の反乱(ミレトスの町が中心)
その2
前490年 ダレイオス1世(200年続いたアケメネス朝ペルシアの王で、中央集権体制を確立した人物)がギリシアに大規模な遠征軍を送る。
→これが第1回ペルシア戦争と呼ばれている
第一回ペルシア戦争
マラトンの戦い
ギリシアVSペルシア軍
ギリシアは総勢1万人ほど、ペルシア軍は2万人ほどの軍隊を出す。
しかし、ミルティアデスの指揮のもと、ギリシア軍側が大勝利を収める。
重装歩兵が勝利する。
その3
前480年〜前479年 第2回ペルシア戦争が起きる
その4
前449年「カリアスの和約」が結ばれる
カリアスの和約とは、デロス同盟(アテネを中心とした対ペルシア同盟)と、アケメネス朝ペルシアが結んだ和平条約である。
その5
パロス島への遠征
ペルシア側についていたバロス島へ、ミルティアデスが遠征をした。
このことについて歴史家のヘロドトスは、
ミルティアデスは「莫大な金を容易に入手できるはずの土地に出征するのだから、自分の言う通りにすればアテネ市民を必ず金持ちにしてやる」と約束したうえで、遠征先すら告げず、民会に軍資金と軍船、兵員を要求した。→70隻の軍隊を率いて出航→しかし28日間も包囲したにも関わらず失敗
と書いてある。
パロス島へ遠征した理由は、「莫大な金を容易に入手できるはずの土地」だと思ったから。
しかし、パロス島は金を産出しなかった。
また、タソス島を植民地としていたパロス島。真の攻撃目標はタソス島だったと言われている。
ミルティアデスが裁判にかけられる
「アテネ市民を金持ちにする」という約束の不履行。「アテネ市民を欺瞞した罪」に問われる。
そして死刑は間逃れたが、50タラントンという莫大な罰金刑となり、獄中で死亡する。
告発者クサンティッポス
ペリクレス(後にペリクレス時代を築く人物)の子供がクサンティッポス。
クサンティッポスにより告発される。
クサンティッポスは、アルコンだったクレイステネスや、ペリクレスなどのアルクメオン家の一族の一人。
この絶大な威信を背負ってミルティアデスを告発し、有罪判決を勝ち取る。
ペリクレスの父、クサンティッポスは、陶片追放に合うものの、第2回ペルシア戦争で将軍として活躍する。
なぜミルティアデスは有罪となったのか?
その1
市民たちが、ケルソネソスの3代目僭主だったミルティアデスを恐れたから。
また、伯父は初代ケルソネソスの僭主だったため、その兄弟な親族の力を恐れた。
その2
第1回ギリシア戦争で、重装歩兵を用い、1万のギリシアの軍勢で2万のペルシアの軍勢に勝ったマラトンの戦い。これはミルティアデスの功績だったが、それによってアテネ市民たちの力が増大した。
その3
告発者で、ペリクレスの父であるクサンティッポス(のちに第2回ペルシア戦争で将軍)の背景にあったアルクメオン家の策略によるもの
※ちなみに3大名門貴族はアルクメオン家(クサンティッポス、ペリクレス)、キモン家(ミルティアデス伯父、ミルティアデス、子供のインディケ=キモン)、カリアス家
ミルティアデス裁判
アルクメオン家とキモン家という名門貴族が、民会での裁判という舞台で繰り広げた権力争い。
ミルティアデスの名誉回復
息子のインディケ=キモン父の罰金の50タラントンを全て完済する。
その後、前480年にインディケ=キモンの姉エルピニケが、カリアス家のカリアスと結婚。
また、前480年頃、インディケ=キモンがアルクメオン家のイソディケと結婚して3大名門が結びついていった。
そしてキモン家は再び復活する。
息子キモンのイメージ戦略により、父ミルティアデスは再び「マラトンの英雄」として思い起こされるように。
ミルティアデスをリーダーとしてどう評価するか?
ミルティアデスを善き指導者、悪い指導者のどちらかを考えた時、どうだろうか?
「国家の善のみを念頭に置いてリーダーシップをとる」という視点から考えると、ミルティアデスは、マラトンの戦いで劇的な勝利を収め、アテネその他のギリシアをアケメネス朝ペルシアから守った。
そういった意味で国家の善を考え、行動したリーダーと言える。そういった点で息子のインディケキモンがイメージ戦略で行ったといえる「マラトンの英雄」という言葉は間違ってはいない。
またその逆で、「私利私欲にかられて自身の地位を至上のものと考え、そのために大衆におもねる指導者」という視点だとどうだろうか?
パロス島への遠征の際、歴史家のヘロドトスによると、アテネ市民をなんの根拠もつげずにパロス島に金が眠っているとし、遠征したものの失敗した。
これによって国益を損なった。
これはミルティアデスの「行動」と「結果」だけしか見れないが、私が思うに、私利私欲や、権力、富が欲しいあまりに先走ってしまったように感じる。
もう少し慎重に、パロス島への金の有無の調査を行ったり、28日間も包囲して崩せなかった要因を事前に探っていれば、このような失敗はなかった。
人が判断を誤る時というのは、目先の結果が欲しいあまりに、調査を怠ってしまうことである。その点ではミルティアデスは、悪い指導者といえる。
これは、民主党が政権交代をなしえた2009年、埋蔵金が90兆円もあるとし、それを国家の予算に組み込もうとして、結局埋蔵金がみつからなかったという話と似ている。
あの時も、民主党は政権交代を掲げ、旋風が吹き荒れ調子が良かった。そういう時に政治家は判断がゆるくなり、間違えるのである。
そういうことを考えると、リーダーの在り方を考えた時、戦争に勝利をしたり、戦況に大勝した時こそ、事前の調査をしっかりと行って、判断をにぶらせないことが大事である。
その点、橋下徹氏が率いていた日本維新の会が選挙で大勝した時、橋下氏が笑顔ひとつ見せずに会見をしていた姿勢は、現代のリーダーとして一定の評価ができる。